詩的に建築を・活かすこととは

     

    建築物は、ほとんどが

    自然界の産物を利用し加工した素材で

    成り立っています。

     

    これらの資源的な産物には、木 のように

    生物であるものもあります。

    賢治のように、あらゆるものに

    命を見出すならば 鉱物も土も石も

    また、「生物」足りえます。

     

    木は伐り倒されるまでは、確かに

    生きています。その時、成長という現実の

    命はそこで絶えます。

     

    それから先、人の手によって加工され

    建物の重要な要素となり、例えば

    適所に用いるとその耐用は実際生きた

    年数にまた等しいとも言われます。

     

    言い換えれば、第二の寿命でしょうか・・・

    勝手な人の言い草かもしれませんが・・・

     

    けれども、死して尚そこに新たな命を

    見出すという、格好の事例とも言えるのかもしれません。

     

    そこからも、本来自然界に生きることは、

    こうした、多くの命との関わり合いと

    その恩恵によって、また他の命を支え合うという、

    仕組みに依っていると実感するのです。

     

    『活かす』ということは、生きているものに

    ばかり、当てはめるのではなく、

    いかに、一つの本来あるべき命を、

    他の命と重ね合わせて、あるべき

    作用と働きとを見出し

    あるいはその価値と意味とを

    増して行くということではないかと思います。

     

    慈しむという心 がそうした智慧にいたるのでしょうか・・・

     

    ややもすれば 傲慢に陥り、こうした他の多くの

    命と活かすことを軽んじて行く傾向のものが生まれて

    来ます。

     

    建築とは、確かに築き上げること、創造すること

    でもあります。 と同時に多くのものを

    実際に活かすことのできる行為でなくてはならない。

     

    と私は思います・・・少なくとも自身に言い聞かせる

    べきことであると・・・・

     

    建築を行う前に、必ず「計画」という

    形以前の見えない思考と検討期があります。

    それは、伝統という規範に基づく計画のときもあります。

    新たな仕組みや考え方を打ち出すこともあります。

     

    いずれも、見えない意識がすべてに

    作用して形になってゆきます。

     

    故に。思考する人自身の普段の考え方や生き方が

    なにより重要なのだと。

     

    これは、建築という範疇に限られた

    ことではない とも思います・・・・・

     

    まさしく、詩的な建築はこれらの思考が

    先になければならないということになります・・・・

     

    つづく

     

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